便利で貧しい日本 
 vol.58  2003/1/9

 最近のテレビ番組で、バカげた「お宅拝見」「お宅大改造」「風水思想」に影響された家相などの番組がよく放映されています。そんな呆れた番組を見ながら、「古くて豊かな英国やヨーロッパ、そして便利で貧しい日本」という印象が強く残ります。これは住宅のことばかりではなく、日本人の生活一般について言えるのではないかと思います。

 人が人として生きるために、住宅はとても大切な空間す。そこを拠点とし、また安らぎの場とし、生活を確かなものにすることができます。経済大国と言われ、国民総生産世界第二位の日本ですが、先進諸国の中で最も貧しい住宅事情にあるのではないでしょうか。貧しい住宅事情でありながら、マイカーは流行し、海外へ出れば、日本人を見かけないことがないと言われるほど海外に出かけ、狭い住まいの中には、クーラー・冷蔵庫・ステレオ・カラーテレビ・溢れる百円食器や高級家具・粗大ゴミなど所狭しとモノが置かれています。モノに溢れているため一家団らんの場所がなく、休息の場所を外に求めなければなりません。早川和男氏は、『住宅貧乏物語』(岩波新書)の中で、住宅環境が人間の人格形成や精神生活、あるいは肉体に影響を与えているか述べています。「空には超高層ビルがそびえ、地上には新幹線が走って、現代文明の枠を競っています。だが、国民の住生活はあまりにも貧しい、家が狭く環境が悪いために遊びを知らない子どもたち、住む場所を探しあぐねている老人、マイホームづくりに疲れはてての一家心中の頻発 ・・・。

 住まいの貧しさは、現代の日本人と世相に深い影を落としているのではないでしょうか。いうまでもなく住宅は、人間の安全と健康を守り、生存と生活を支え、文化をつくっていく大事な基礎です。そこで子供たちが育ち、家庭生活にかかわり、人間の全人格をつくる根本的なものです」と、厳しく問いています。アメリカ郊外の平均的な一戸当りの敷地面積は200坪(660平方メートル)で、裏庭にはプールがあったり、どこからか可愛いリスの訪問が似含う芝生庭園や、時には馬を飼っている庭の風景もあります。郊外と言っても、都心から車で約30分から1時間程度ですし、ニューヨークもシアトルも同じ条件です。価格は土地と住宅付で3000万円台程度で買えると聞いています。その環境と価格に、日本人には驚嘆あるいは呆れる以外の言葉しか出てきません。またイギリスやヨーロッパのどこの家も古いものばかりです。でも古いとボロいは別の意味です。すごくきれいなのです。ある人の住宅の半分は700年前に建てられて、キッチンとバスルームだけ40年くらい前に増築されたものさえ当たり前にあります。陶器を焼けそうなパンを焼く窯や暖炉もあります。どこの住宅も何度も何度も改築したりペンキを塗り直しているので、古めかしさはあまり感じません。電気製品は、日本と同じですがオーブン・グリル付エレクトロ・キッチンの家庭が多いみたいです。洗濯機はコンパクトながらも全自動で乾燥機付のものです。冷蔵庫は小さくて1ドアのものが普通で、冬場は外に出しておけば十分冷えるのです。テレビはどこの家も14〜19型ですが、2・3台あります。ステレオも小さいものが多いようです。あまり大型の家電製品は、歴史のある家には似合いません。また、絵画や写真がいっぱい飾ってあったりします。変なオブジェもいっぱいあるし、銀のロウソク立てとか、間接照明も・・・この辺が文化水準の違いの原因なのかも・・・。

 また、日本の貧しい住宅事情では、自分のガーデンを持つのは至難の業です。広い庭で遠くの山々を借景にして、伸び伸びとガーデニングができたら・・・と夢は果てしなく広がります。でも、ないものねだりしても何も始まりません。都会では自宅に庭がない、もしくは、あっても猫の額ほど・・・という人も多いはずです。この日本の風土で培われてきた「感性」は、そう急には変えられません。美しい新緑の木々にしても、自然界の風雨に耐えてきた時間があるはずで、それが人の心をうつのです。日本の住宅は従来、自然のきびしさを克服すると同時に、自然と調和がとれたものであり、縁側も自然との交渉の場として重要視されていたのです。それが、現代に至ってはどうでしょうか。他の人・物・音などを遮断・隔離するという構造・機能をもった住宅(自分だけの空間)になっています。個の確立とかいう大義名分を立てながら・・・。この住まいの遮断構造、人間の他を排除しようとする意識が疎外を生み、若年・老年者の自殺の遠因になっていると指摘する学者もおります。もう一度、日本の開放的な、「住まい構造」を考え直すときが来ていると思われます。

 終戦直前、日本の主要都市が米軍の空襲で焦土と化し、無数の住宅を失いました。土地は狭く「ウサギ小屋」と外国人からからかわれるほど、日本の住宅事情は貧しいものがあります。自分の家が欲しいという庶民の願いをかなえる一助として、全国の住宅供給公社は、一定の役割を果たしてきました。戦後、政府は持ち家推進策をとり長期の住宅ローンを勧めてきました。長期に雇用安定しているときであれば問題ないでしょうが、最近ではローンの返済額は変化ないのに、年収が大きくダウンし生活は以前よりも厳しくなっています。同じ住宅供給公社でも青森県住宅供給公社は元主幹による14億5千万円の多額横領事件の舞台となり、今や青森の知名度は全国区になってしまいました。横領した金額は贅沢の限りを尽くして散財、南米チリにいる妻アニータにおよそ10億円送っています。チリにレストラン、病院、豪邸を造り、この資金に充てられたようです。個人の犯罪とはいえ結果的に青森県住宅供給公社は、県民に良質な住宅を供給することより、南米チリのアニータに豪邸などを「供給」するとはなんて皮肉な話なのでしょう。

 モノに溢れた家なのに、いつまでも際限なく買い続ける消費者。日本人は本当に欲しいものがあるわけでもないのに、本当は買い続けるモノがほしいだけなのかも知れません。だからこそ日本の家も消耗品に過ぎないと思っているのでしょう。外国の100年や200年住宅は当たり前というほどいっぱいあります。日本にだって、田舎に行けば100年以上経過している立派な住宅が今でも大切に使われています。今年こそ、「便利で貧しい日本」から脱出したいものです。