遊べない子どもたち 
 vol.38  2002/6/29

 本来、子どもというのは、常に貪欲なほどの好奇心に満ち溢れ、全身でぶつかり、それでもなお疲れなど見せずにいるという健康そのものを絵に描いたような存在だったと思います。でも、現代っ子たちは何とくたびれた生気のない子どもたちになっているのだろうか。
 こうした多忙な子どもたちは、毎日を無気力・無感動で過ごし、遊びそのものも貧弱になってしまっています。今では子どもの遊び集団が小型化し、それも異年齢集団が崩壊したことにも大きな要因があると思います。石蹴り、陣取り、木登り、缶けりといった遊びが消え、自転車、鉄棒、縄跳びのような運動的遊びに限られていると思っていた10年前、今は室内で静かにテレビゲームによって競い合うという質的な変化があります。今の子どもたちは「遊び失調」になってはいないかと心配です。「遊び失調」という言葉は、栄養失調も最初は食べ物の絶対量、栄養の不足に起因して、やがて栄養を血とし肉とする機能が衰えてくるといいますが、「遊び失調」も同様に、遊び時間や遊び内容の質の低下のみならず、子どもが本来持っている「遊び意欲」を衰えさせ、遊べない子どもたちにしてしまうことを言っています。

 遊べない子ども時代を過ごし、勉強して一流大学を出て、霞ヶ関の官僚になる。そして、30歳ほどで地方に出て課長になる。先日も、ある会議に出席し、どう見ても30歳前後なのに、彼より年上の部下が「新しく着任された課長です」と紹介して歩く姿は、何か不思議な気さえしてしまいました。また、同じ課長と別な機会に会ったら、周囲は役員ばかりの年齢的にも親の世代と思われる人たちを前に、「新しい課長です」と紹介されていました。着任して間もないせいもあるのか、自己紹介は名前だけ。この課長も、きっと遊べない子どもたちの代表なのでしょうか。
 いつの世も「今の若いものは・・・」「いまどきの子どもたちは・・・」と思わず言ってしまうことがあり、自己嫌悪にかられることが多くなってきました。かつて学生だった頃、上の人たちに「今の若いものは」と言われるたびに、その理解力のなさ、柔軟性のなさに呆れ果て、うんざりしたものでした。世代の違いを巨視的に見る作業を放棄し、やみくもに自分の世代を正当化する不真面目さは許せないとも思いました。基本的にその姿勢は、今でも変わっていないつもりなのですが、時折、どうしても言葉に詰まってしまうことがあります。