◆ 考古学をかじっているものであれば誰でも知っているものとして、「ミネルヴァ論争」というものがあります。昭和11年に創刊された雑誌「ミネルヴァ」誌上で論争されたことから、この名前がついてます。江上波男、後藤守一、山内清男、八幡一郎、甲野勇という新進気鋭の考古学者たちによって、「日本石器時代文化の源流と下限を語る」という座談会が催されました。この座談会の内容をめぐって、後々の問題へと発展していくのです。この論争の中心人物は喜田貞吉と山内清男です。
歴史家の大御所「喜田貞吉」と新進気鋭の若手研究者だった「山内清男」との間で繰り広げられた論戦。特に、喜田貞吉は東北地方の縄文時代の年代を著しく下降させ、山内清男から激しい反論を受けたことは有名な話です。喜田貞吉は明治4年に徳島県小松島市の旧家の三男として生れています。明治26年、東京帝国大学に入学し、国史科を選択。国史科出身だけに、法隆寺の再建非再建問題、南北朝関係、平城京関係などでも著名な学者です。また、大正13年から東北帝国大学法文学部にかかわり、以後15年間に渡って仙台で暮らしています。この間、大学に奥羽史料調査部を設置したり、考古学研究室の基礎を固めた人物としても知られています。数々の業績を残し、昭和14年7月3日に亡くなっています。山内清男は明治35年、東京で生まれ、昭和8年に東京大学理学部人類学科に入学し、大正13年から東北大学医学部解剖学教室に勤務しています。その後、東京大学と成城大学に勤務し、昭和45年8月29日に亡くなっています。山内清男の業績は、縄文土器の型式学的研究に基づく編年の確立、そして縄文土器に見られる縄目である「縄文原体」の発見が特に有名です。
◆ 学生社から復刻されている「ミネルヴァ」から発端の記事をを要約して紹介します。
| 江上波男 |
日本といっても広いから、場所によっては石器時代の実年代に相違があるでしょう。 |
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| 山内清男 |
縄文の終末年代が地方によって大きな違いはないと思っているが、それに反対意見があるらしい。 |
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| 後藤守一 |
縄文土器の終わりの時代は地方的に違いがあると思う。喜田先生がいう鎌倉時代も地方によっては必ずしも無茶な議論ではない。地方ではかなり遅くまで続けられたと思う。少なくとも古墳時代末期にも地方によっては縄文土器が使われていたと考えてもいいと思う。 |
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| 山内清男 |
縄文末期、東北地方では亀ヶ岡式土器が一般的だが、この影響と考えられる土器が関東・中部・畿内にもある。これらはその地方に固有な末期の縄文土器に伴っている。 |
◆ この山内清男の意見に対して喜田貞吉は、「日本石器時代の終末期に就いて」と題して反論しています。石器時代の遺跡から中国の宋銭が共伴する証拠を提示したり、岩手県の平泉に京都文化があっても、そこから僅かな僻地では亀ヶ岡式土器を使用する石器時代人が棲息していたことは事実であると言っています。縄文土器と平安時代末期に位置づけられる宋銭が一緒に出土するという事実の前には屈服せざるを得ないとして、その後も石器時代の遺跡から宋銭が出土する例を挙げ、山内清男へ反論していきます。
これに対して山内清男は「日本考古学の秩序」と題して、喜田貞吉に反論します。「日本考古学には秩序ができつつある。各地方における組織的調査の進行によって、これは益々強化されていくであろう。そして既にその大綱はできあがっているのである」と論破していくのです。
さらに喜田貞吉は山内清男に対して、「あばた」も「えくぼ」、「えくぼ」も「あばた」と題してやり合っています。「ほれた人の目からみれば、あばたもえくぼに見えるということわざがある。反対に嫌だと思う人から見れば、えくぼもあばたにみえる」というものである。
山内清男はこれに対し「考古学の正道」と題して最後の反論をしています。「えくぼはあるべき位置を持つが、あばたの所在には秩序がないということです。近年、あばた顔は減ったが、学説に秩序を持たぬ人は必ずしも減ったとはいえない」と痛烈な批判を喜田貞吉に浴びせています。「僕は学説は正に学問的事実の上に立つべきものであって、得体の知れぬ常識によって学問的事実を解釈するのは正道ではないと思う」と、真摯に耳を傾けるものがあります。若手研究者が大御所と呼ばれる歴史家に果敢にも挑んでいくその姿は、心地よい痛快さもありますが、確固たる信念によって裏付けられたものの必要性を強く感じます。学生社から「ミネルヴァ」復刻版が出版されていますので、機会があれば是非読んで頂きたいものです。
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