◆ 考古学会では今でも藤村事件の余震が続いています。今朝の新聞によると、本人は宮城県内の病院に入院中で、これまでの聞き取り調査から20数箇所にもおよぶ前期旧石器ねつ造を話し始めているようです。ねつ造発覚当初は二ヶ所だけと主張していましたが、誰もが感じていたようにやはりかという感じ。私も彼と同じように、宮城県北部をフィールドとして遺跡踏査を約20年間していました。露頭があれば必ず探索していたにもかかわらず、旧石器時代だと思われる石器を採集したのは20年間でたった2点のみです。いくら遺跡が読める人間だとしても、あまりにも不自然すぎますし、人一倍の情熱だけでそんな簡単に見つかるものでもありません。ただし、縄文時代の遺跡を歩いていると多かれ少なかれ、必ず石器やその剥片を表面採集することができます。当然、何度も何度も遺跡を歩いているのであれば、大量の石器コレクションができるのは当たり前。昭和40・50年代、大きな遺跡を半日歩いただけでも、100点や200点の石器や剥片を表採することは当時誰にでもできたことです。宮城県に住んでいた頃、F氏から「宮城県でモノ集めは藤村君と君だね」と、冗談交じりで言われたものでした。休日を利用してのアマチュア考古学は、束縛されることなど何もありません。専門家と一緒に仕事をしてみたいとは思いながら、食べるための仕事が忙しくて思うようになりません。F氏からアマチュアでも情熱を持ちながら考古学の論文を書いている人たちが沢山いるから、君も頑張ってみなさいと激励されたものでした。そもそも行政で発掘調査をしている担当者が全てプロと呼べるのでしょうか。また、日本考古学協会に所属している3600人だけがプロなのでしょうか。曖昧にして不可思議な世界です。そうであれば、あの藤村氏は日本考古学協会の会員であるし、NPO東北旧石器文化研究所の副理事長でもありました。でも、マスコミや周囲にいた関係者は、彼をアマチュア研究者としてきました。これまでにも数々の華々しい報道にもかかわらずにです。
◆ 中学一年のとき読んだ本の中にちくま少年図書館「心の灯 考古学への情熱」というものがあります。著名な考古学者藤森栄一が子供向けに書いたもので、考古学に対する情熱が綴られています。少年時代にともした心の灯は、いつか必ず燃え上がります。土蔵の中で黒く光る石器に心ひかれた幼い日から、一人の少年の心に強烈にともされた灯、考古学への情熱。満たされない思いで街をさまようときも、不安に荒れ狂うときも、ついには、死の淵からも救うことになったのは、この学問への情熱だったようです。これは劣等感と向学心の間を揺れ動きながら少年時代を送った在野の人が、考古学を心の支えとしてあらゆる苦難と戦い続けた半生の物語だと思っています。既に30年以上も前に読んだ本なのに何故か新鮮に感じられ、引越するたびボロボロになりながらも本棚にはいつも収められてきました。そのほかにも楠本政助「縄文人の知恵にいどむ」、大西信武「常呂遺跡の発見」など、アマチュア考古学者と呼ばれた人たちの本が並んでいます。最近、知人からいただいた末永雅雄「考古学少年」を楽しく懐かしく読ませていただきました。気持ちの上では、今でも当時の考古学少年そのものです。
大学時代、4年間に渡って中世城郭の発掘調査を手伝うことができました。発掘のイロハから教えてもらい、考古学の厳しさや楽しさも同時に知ることができました。妻とは発掘現場で知り合い、その後、結婚して子供たちも生まれました。子供たちが小さな頃には、弁当持参でよく遺跡にも出掛けました。仕事の忙しさに考古学もできなくなった頃、海外勤務することになり、考古学のことは完全に頭から消えてしまいました。そして、現在は町教育委員会で博物館運営と文化財を担当しています。昨日も遺跡の確認作業でドロドロになって帰宅しました。「心の灯」の最後には次のような一文で締めくくられています。「これから始まるんだ。つかれたら休んで いそぐ必要はない。ほんとうに。病みほうけたからだで 食うものもなくても それでも、私の心の灯は、消えていないから。」
仙台に住んでいたときに「仙台湾岸における土器製塩」・「東北地方における縄文時代後期の瘤付土器の変遷」・「亘理伊達家墓所」・「仙台藩の大身侍における墓制のあり方」などを研究テーマとしていました。年齢を重ねていくうちに、仕事の文書量はどんどん増えていくのに、論文を書く文書量は極端に減っていきました。当時、書き留めていた文書を整理して、一冊の報告書として世に出したいと秋の夜長を楽しんでいます。
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