◆ 先月、網走のモヨロ貝塚に出かけてきました。網走市街地を流れ、オホーツク海に注ぐ網走川の河口左岸そばの丘陵地にモヨロ貝塚はあります。宿泊していたホテルオホーツクインから歩いても至近距離にありましたが、北方民族博物館の中田さんに連れて行っていただきました。
貝塚前に立つ丸太小屋風の建物は、市立郷土博物館の分館「モヨロ貝塚館」です。縄文・弥生式とは異なったオホーツク式土器や石器、動物の骨格器のほか、貝塚の地層断面(復元品)も見ることができ、今も謎が多いオホーツク文化へのロマンが駆り立てられます。
モヨロ貝塚は1913年に網走川河口左岸で米村喜男衛氏によって巨大な貝塚が発見されました。貝塚が知られるようになったのは、市内で理髪店を営んでいた在野の学者、米村喜男衛(1892―1981年)の功績です。子供のころから考古学に興味を持っていた米村さんは、故郷・青森の小学校を中退し、東京の理髪店で働きながら、遺跡発掘調査などにたびたび参加。そこで知り合った東大人類学教室の鳥居竜蔵博士の影響で、アイヌ文化を調べようと21歳で網走を訪れ、この貝塚で、アイヌ民族とは別系統であるモヨロ人の土器を発見しました。その後は網走に定住し、遺跡の発掘、保存に尽力され、網走博物館の初代館長も務められています。
◆ 出土した土器や石器は今まで知られていた文化とは異なるもので、当時の最寄村から名をとり「モヨロ人」と呼び、貝塚も「モヨロ遺跡」と名づけられたそうです。これが、あの幻のオホーツク人が初めて歴史に登場した瞬間です。この貴重な出土品は現在モヨ□貝塚館で展示されています。
オホ−ツク文化のついては次第に解明されつつありますが、この民族をめぐる謎は多く「謎のオホーツ ク人」である。最大の謎は「オホーツク人 は何処へ消えたのか」というものです。
現在では、擦文人と擦文文化に吸収されたという説が有力。オホーツク文化にはあって擦文文化には無かった熊崇敬の思想(イヨマンテ)は、擦文文化から発展したアイヌ文化に受け継がれていると考えられています。二つの文化は融合して、オホーツク文化はやがて擦文文化に吸収され、擦文文化はアイヌ文化へと発展していったというものです。幻のオホーツク人は古代のロマンに満ちています。
◆ このモヨ□貝塚を発見した網走博物館の初代館長を務められた米村喜男衛さんと網走刑務所で製作している郷土人形ニポポと係わりあることも滞在中に知りました。朝鮮が植民地になっていた当時、網走刑務所の労働はすっかり少なくなっていたそうです。ニポポを民芸品化する際、樺太から引き上げてきた樺太の研究をしていた高山長兵衛がこの「セワポロロ」に目をつけ、これをモチーフにするよう米村喜男衛に勧めた事がうかがえます。米村喜男衛は「セワポロロ」を元に日本人受けする「コケシ」のような表情や形態を考えたのでしょう。現在の網走市で作られている「ニポポ人形」は、「事故などから身を守ってくれる守護神」だそうです。良い事があればニポポに感謝をし首飾りや衣装で飾り付けをすると更に良い事が舞い込むといいます。この習慣は完全に日本人のお地蔵様の習慣にそっくりで、アイヌのカムイ的な思想ではないようです。
ニポポとは「小枝」と言う意味で「お守り」としての意味だったようです。「ニポポ」は、元々樺太アイヌの習慣で「セニ・テ・ニポポ」とか「セニシテ・ニポポ」と呼んだそうです。赤ちゃんが産まれると「健やかに育ちますように」と小枝を切り、赤ちゃんの着物の帯に結ぶ習慣があったそうです。特に彫刻などはされなかったようなんです。樺太アイヌは木に刃を入れることは、そこに意を入れることカムイが宿る事と信じられてきました。アイヌにとって「カムイ」とは「自然」であり「神」であり「悪魔」でもありました。つまり、良い願いを込め刃を入れると良い神が宿り、いい加減な気持ちで木を切ると悪魔がとりつくと言う事です。
◆ 8月後半、網走管区博物館協議会の講演に呼んでいただき、駅まで迎えに来ていただいた方が米村喜男衛さんのお孫さんの衛さんでした。3代にわたるモヨロ貝塚にかける思いが伝わってきます。
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