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◆ 結婚して二年、お世話になっていた仙台の叔母宅を離れ、宮城郡利府町に引越しました。利府町は仙台から車で30分程のベットタウンです。当時、これといった商店街や観光地もなく、極めて平凡な特徴のない町でした。新しくできたニュータウンが幾つも並び、まだ売れていない空き地だらけの新興住宅地です。団地から歩いて5分ほどのところには、さえない小さな小さな食料品店がオープンしていましたが、つぶれるのは時間の問題でした。愛想の悪い店員と品数の少なさ、そしてやる気を感じない雰囲気。この店と団地がその後どうなったか分かりませんが、昨年はサッカーのワールドカップ宮城球場のある場所として華々しく登場していました。
◆ 当時の興味は「仙台湾岸の土器製塩」でしたので、これを学ぶには利府が地理的に絶好の場所でした。利府は松島湾のどこにでも同じ時間で行けるメリットがあります。松島湾の宮戸島から七ヶ浜まで、製塩の遺跡を学ぶには格好の場所です。仙台の職場にも近く、フィールドとしての松島湾があり、新鮮で美味しい魚介類がいつも手にはいる塩釜があり、実家や親戚宅にも近い距離でした。当時、自分のライフワークを実現するために最も適した場所だったように思います。県内で土器製塩を調べている人も少なく、継続的に調べていくと縄文から平安末頃までの体系がある程度見えてきます。籾殻を大量に含む一群の製塩土器も発見しました。また、松島湾の松がクロマツではなくアカマツなのは古代における開発の結果の産物であることも分かりました。松の分布図を見ていくと、湾内の松すべてがアカマツで、島嶼部の外洋に面した部分に細長く分布しています。海岸部の松は本来クロマツなのですが、土器製塩などによる燃料確保のためにクロマツが伐採されていったものと考えられます。その後にアカマツが海岸部まで進出してきたのだろうと想像されるのです。
◆ 更にその2年後、仙台駅の近くにある県立図書館前に引越しました。マンションの一角を会社の寮として利用していたこともあり、寮長として利府から移りました。ここは仙台でも一等地の住宅地で、近くには観桜会で有名な榴ヶ岡公園、マンションの隣はスイミングスクールですし、ゴルフの打ちっぱなし、スポーツクラブ、病院、そして仙台駅やデパートにも至近距離でした。そして何よりも歩いて5分のところに県立図書館があり、自分の書斎同様に利用させてもらったことです。調べもので不明なことがあると目の前にある図書館に走り、必要な本を司書の方によく探していただいたものです。
◆ 図書館脇に引越した理由として、「土器製塩」に関してある程度の資料が得られたことで、ペーパーにまとめたいと思いました。それと次なる興味の「亘理伊達家墓所」を調べるために距離的に近い仙台に戻ることにしました。仙台をベースに亘理伊達家墓所の調査と、雨の日はほとんど図書館で過ごすことができました。幼稚園に通う長男は、いつも後ろから追いかけてきて、休日ともなると長男を連れて日が暮れるまで一日中亘理伊達家墓所の中で調査していました。長男は墓の中を走り回ったり、お寺の水道で水遊びをしていたり、虫捕りをしたりして時間を過ごしていました。時には子供ながらに実測調査を手伝ったり・・・。このように二年間は利府で暮らして製塩に関係する資料を集め、次の二年間は仙台で亘理伊達家墓所に関して調べていました。
◆ 自分の興味や趣味を生かすため、その都合に合わせてあちらこちらへ引越しするなんて、なんて我が侭なのだろうかと思います。そのときは確かに我が侭だと感じながらも、妻も反対せずに一緒に荷造りをしていました。でも、このときの経験は無駄にはなっておらず、こうして博物館を運営していく上で大きな財産となっています。好きなことをやる上で、無駄と思える時間があってもいいと思います。でも無駄と判断するのは本人ではなく、意外と何も知らない他人という場合が多いものです。おそらく自分の夢を実現するために、あちらこちらへと引越しを繰り返すバカな人間だったと思いますが、それを許してくれた妻には感謝しています。何も知らずに二人の子供たちは、今日も宝物をダンバール箱に荷造りしている夢を延々と見続けているようです。
◆ 今でも仙台で暮らしていたときの夢を見ます。午前中いっぱい長男を連れて図書館で調べものをし、昼近くになると次男を連れた妻がやって来ます。図書館の脇は榴ヶ岡公園という市民広場ですので、同じ年齢の子供たちとすぐに友達になって遊ぶことができます。夜は散歩を兼ねて職場のあるSS30ビルへ。そして、仙台市内が一望できる30階のレストランで、夜景を見ながらの食事。今思えば、こんな生活も悪くなかった気もします。
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