最近の地方博物館・学芸員に思うこと 
 vol.9  学芸員だけが忙しいというような愚かな考え方

 一昨年末、某雑誌上で地方都市のH博物館とH美術館に勤務している女性学芸員のインタビューが掲載されていました。博物館や美術館に携わっている者が、住民が何を期待しているのか、学芸員として何を考えているのだろうかと疑問に感じました。当然のことながら入場者数だけで感銘の大きさを計ることはできませんが、企画があまりにも高踏的でもいけません。博物館や美術館は専門家の集団であることが住民を遠ざけているきらいがあり、館のシステムを再考する必要がありはしないでしょうか。某女性学芸員の言葉を借りれば、「年間予算枠の中でいかに素晴らしい企画展さえ実施すれば事足りる」ではあまりにも独善的です。一般企業であれば完全に倒産してしまいます。入館料だけではやっていけません。入場者数は全国的に増加しているようですが、それは単に美術館や博物館が増えただけであって、1館当たりの平均入場者数は年々減っているのが現状です。芸術や文化が名のみ盛んで、その実は金儲けでなければただの学芸員の道楽であることを感じているのでしょうか。「公的な美術館だから博物館だから入場者が増えなくても一向に構わない」では、一体誰のための美術館であり博物館なのでしょうか。一般住民は学芸員の道楽のために血税を出しているのではありません。入場者やパンフレットの売上だけで十分素晴らしい企画を実施している私立博物館も数多くあります。

 関係者は本気で知恵を絞っているいるのでしょうか。ここ数年来、いくつか地方の企画展を見る機会に恵まれました。しかし、関係者が考えるような美術の素晴らしさを地域住民に知らしめるような高いレベルの美術展が本当に開催されたのでしょうか。美術館は所有することに意味があるのではなく、見せることに意味があります。そして学芸員は芸術作品や芸術家と見学者とを結ぶなくてはならない仲介者であったのでしょうか。学芸員が考えるような素晴らしい企画展とは、どのような企画をいうのでしょうか。すぐれた展覧会をすることが重要なのは誰しも痛感していることですが、1年ごとの予算でしばられている公立博物館や美術館において、充実した企画展は困難な状況にあることは自明の通りです。だからといって、すぐれた展覧会を見るために住民がわざわざ東京などの大都市に出かけなければならないのも問題が残ります。

 地方自治における文化行政の掲げる目標の一つに、全国均一的な水準の文化行政サービスの提供があります。良質な文化サービスを提供し得る施設整備も大切ですが、本当に大切なことは文化行政への住民参加ではなく、住民文化活動への行政参加が重要だと思います。住民の欲求を無視した文化行政は独善であり、住民から評価されない文化施設は廃墟に過ぎません。学芸員だけの自己満足ではなく、優れた企画内容に伴って入場者も増加していかなければ、単なる収蔵庫であって博物館や美術館ではないことを関係者は強く反省すべきです。博物館や美術館というのは、今でも学芸員が片手間にできる仕事というイメージがあり、財政が厳しくなるとまず予算が削られる分野になっています。知恵や汗も出さずに、金がないから何もできないと愚痴ってばかりいるから住民は嫌気がさして足が遠のくのです。また博物館や美術館にわざわざ行かなくても生活に支障はないとの意識も一般には強いようです。もっと身近にある存在であれば、必ずや足は自然と向くはずです。博物館や美術館を有意義に使うためには住民への主体的な問いかけが必要です。

 最近、全国の町が均質化して、風景も均質化して、住んでいる住民も均質化して、生活レベルも価値観も均質化して、暮らしを考えればそれはそれで悪くありません。しかし、何だかつまらないのです。風土や社会や歴史や伝統を異にするさまざまな民族が、いま生み出しつつある美術や文化。そこにある固有の性格と問題に触れることはかなりの刺激になります。例えば地方の博物館において「世界」に目を向けたような展示が行なわれることは非常に稀です。住民の文化的欲求に対する行政の在り方を考えた場合、住民の文化的欲求の高まりに対して適切な充足の手段を提供するという仕事は、行政の役割でなくて何でしょうか。生涯教育の重要性が叫ばれている現在、そのために博物館や美術館がどれほど大きな役割を果たすことか考えていただきたい。住民の文化的欲求は量的にも質的にもますます高度・増大化し、すでに個人のレベルで処理できる限界を越えていることは明らかです。行政は、衣食住その他の生活については、住民の欲求を充足させるためには適切な物資を供給し、そのスムーズな流通を図る責任を持っています。それと同じように、「心の糧である文化」を住民に満足するまで供給することは、まさに行政の責務です。但し、空虚な「文化の時代」という掛け声だけが先行しても困ります。日本の美術館や博物館の多くは、地方の見栄、地方のわがまま、そして地方への迎合でしかないことが多すぎる気がします。地方の文化が地方に安住することではありません。地方の美術館の多くは、御当地出身の芸術家に抱きつかれて身動きできなくなっています。いいものなら、どんどん市民に還元されるべきですが、単なる御当地出身という唯一の糸で結ばれているようなものであれば単なる「掛け声だけの文化」に終わってしまう危険性がある美術館や博物館は確固としたポリシーとアイデンティティを兼ね備えたうえで、きちんと運営されるべきです。

 また、住民側においてはもっと地方に誇りと自信を持つべきです。地方の活性化とか地方の時代などと叫ばれていますが、現在の地方は魅力も力も失って、ますます東京への一極集中化が進むばかりのような気がします。地方で多くの人たちが東京に憧れているような現状では、地方の活性化などできるものではありません。地方に居ながらにして東京と同じ情報を、もしくはそれ以上に享受してほしいと思います。昔から、異なる文化の触れ合いが新しい文化の息吹を生み出してきました。そういうことからも、何かを契機として市民が地方に誇りと自信を持つきっかけになればと思います。関係者には他者理解が実は自己理解だという「文化の正道」を歩んでくれることを望み、将来を担う子供たちには塾通いなどやめて、美術館や博物館に行ってほしいものです。しかし、現実の博物館や美術館にそれだけ子供たちを呼べるだけの魅力があるでしょうか。また、学芸員もそれだけの力量や問題意識を持っているのでしょうか。「雑務が多いからできない」「雑芸員だから」という返事が返ってきそうです。学芸員だけが忙しいというような愚かな考え方だけはすぐに止めるべきです。

 これまでの博物館や美術館にしても、そこの学芸員から提出される素案を基礎に特別展や企画展が実施されます。そこには学芸員個人の力量や専門としている分野によって大きく左右され、一般住民の多くが望んでもいないものを住民の血税で見せられるという悲劇が生じてしまうことになります。仮に運営委員会なんぞが存在していても、大体が有名無実というのが大半という現状において、住民はそう多くは望むはずもありません。学芸員の多忙からくる企画力不足であれば、別な方策はないのでしょうか。住民から次の企画は「これが見たい」「あれが見たい」という声を生かしつつ、努力することは無理なのでしょうか。例え、無理難題としても、活発な意見交換や展示への住民の参加は無理でしょうか。学芸員からの一方通行の企画だけでなく、双方向の風通しのよい企画であってほしいと思います。常設展示で地域の博物館としての役割はかなり理解できると思われますが、さらに常設展と何ら変わらない企画展示を見せられては、一般住民の足はただただ遠のくばかりです。また隣接した市町村に同じような地域博物館が建てられたとしても、その展示内容に何ら変わるものは見当たりません。現在の行政区分で分けられているだけであって、文化・歴史的に文化を共有する地域においては、はっきりとした地域色を出さない限り、何度もそう多くの見学者を迎えることはできません。単に年間予算を消化するだけの住民を無視した文化行政であってはなりません。