地方から 
 vol.19  神戸新聞で連載された博物館建設経緯

 「絹の道」つなぐ希望
始まりは、まちおこしプランの策定だった。
 一九八三年のことだ。「農業に織物。地元の産業がみんな元気なくなっちゃった。年寄りばっかり。こりゃいかんぞって。よし、ふるさと再発見をやろうと話し合ったんですよ」。町長の奥田清喜(59)が説明した。
 兵庫県出石郡但東町。かつて、すべての道はそこで峠越えとなった。周囲は山。川筋のわずかな土地に人が住む。
 農村のよさを積極的に見いだし、都市との「交流」でまちおこしができないか。町を走る旧街道と特産物の絹織物とをかけ合わせ、「但東シルクロード計画」と銘(めい)打った。
 反響は意外なところからあった。
 大阪外大モンゴル語学科教授の小貫雅男(65)=現滋賀県立大教授。まちおこしを報じる記事が目に留まった。専門は遊牧地域論。学生たちに国内のフィールドで「地域論」を学ばせたい。そう考え、各地で調査活動を手がけていた。
 「町の九割が森林。厳しい自然の中で生きる人たちのことを考えると、にわかに興味がわいてきた」
 八五年、小貫が農村調査のため学生を連れて町に入った。学生たちは懇意になった住民の家に寝泊まりし、住民の家を一軒ずつ回って、聞き取り調査を始めた。
 町職員だった奥田が当時を振り返った。「受け入れるも何も、学生が体当たりで話を聞いていく。神出鬼没。まるでゲリラですな」
 小貫にとって、但東町は「日本」を考えるフィールドになった。「山の中の過疎の町だがシンプルな生活があり、町民は自立していた。未来への希望がある。高度成長の次の社会の芽があると感じた」
 調査チームは町民とひざを交えて語り合い、気持ちをつかんでいった。やがて小貫の口から、砂漠と草原の国の話が聞かれるようになった。モンゴル。遠くユーラシア大陸の国。
 小貫は旧満州・内モンゴルで生まれた。十歳の時、日本へ引き揚げてきた。農作業を手伝って驚いた。「土がふわふわしていたんですよ。満州は荒涼として、かちかちの大地だった」
 成長とともに大陸への郷愁が頭をもたげた。大学進学。まだ珍しかったモンゴル学科の扉をたたいた。
 小貫を仲人役に、但東町はモンゴルとの結びつきを強めていった。九一年、モンゴル学術調査の町民参加。九三年、友好使節団派遣。九四年、国際シンポジウムと音楽祭を開いた。
 さらに、町は拠点づくりへと踏み出した。「日本・モンゴル民族博物館」の建設。 小貫が一人の男を紹介した。元モンゴル大使館員の金津匡伸(42)。後に博物館の副館長に迎えられる。
九五年。金津が家族を連れてやってきた。
(敬称略)

 既成の概念壊す試み
ソ連崩壊後のモンゴル混乱期。日本・モンゴル民族博物館副館長、金津匡伸(42)は当時、現地の大使館に勤めていた。
 庶民の生活は荒れていた。貴重な民族資料が買いたたかれ、海外へ散逸していく。たまらず自費で収集にあたった。「図録のような本を書きたいと思いまして。なべや釜をはじめ生活レベルの品々を集めました」
 ざっと五千点。この資料が但東町と結びつけた。
 宮城県出身。少年時代から考古学ファンだった。縄文の遺跡に魅せられ、八戸工業大で建築史を学び、発掘調査にも加わった。
 卒業後は博物館に勤めたいと考えていたが、かなわず住宅メーカーに就職。以後の職歴は、金津をして「人生は分からない」と言わしめるものだった。
 上京し小さな出版社に勤務。次に大手警備会社へ移った。ここで東京サミットなど国際会議の警備を担当。仕事が縁で、「プロの警備担当者がほしい」と外務省から要請があり、大使館勤務の道が開けた。
 職を変え、住まいも移ったが、どこへ行くのも妻と二人の息子は一緒。「友人から『遊牧民みたいやな』と言われます」
 九六年、但東町にできたモンゴル博物館の副館長に就任。博物館の所蔵品の大半は金津が寄贈した。大学卒業から十二年。ついに夢がかなった。
   「スーホの白い馬」。小学生の教科書に載るモンゴル民話から、子どもたちの興味は広がる。
 「モンゴルの草原ってどんなところだろう」「遊牧ってどんな暮らし?」
 博物館の学芸員が答えていく。「モンゴルの冬はね、冷凍庫の中ぐらい寒いんだよ」
 「えーっ。おしっこも凍るの!」
 金津が始めた「出前授業」。学校の教室に展示品を持ち込んだ。先端に馬の頭をあしらった楽器「馬頭琴(ばとうきん)」の澄んだ音に聞き入る。遊牧民の衣装からは草やひつじのにおいがする。教科書では分からない「生のモンゴル」がある。
 金津は、田舎の小さな博物館から個性的な情報や試みを発信できないかと、長年考えてきた。
 「既成の文化や概念を壊すのは地方なんですよ。ゆっくりものを考える時間がある。都会に比べると一日が三十時間ぐらいある感覚。そのぜいたくさを但東の人に知ってもらえれば」
 夜の博物館を体験してみよう、とも呼び掛けた。ちょっぴり怖いが、なんだかわくわくする。
 「これまでの博物館の使い方をどんどん壊したい。せっかく地元にできたのだから。よそではできない楽しみ方を考え、博物館を楽しんでほしい」
 金津は、次の仕掛けを練る。
(敬称略)

 農、遊牧の村が描く像
 但東町の日本・モンゴル民族博物館の裏から、楽しげな会話が漏れてくる。副館長の金津匡伸(42)が、自宅の車庫を改造して開いた私設酒場。金津の誘いで、町民が集まってくる。小さな社交サロンだ。
 金津が但東町へ来て六年。「三回、泣きました。すごい田舎へやってきたと思った時。次に土地の閉鎖性に困惑して。最後は地元に受け入れられたと感じた時。三回泣いて、ここから離れられなくなった」
 雪の朝。家の前に野菜や米が置いてある。長男が驚いて言った。「まるで『かさ地蔵』の世界や」
 近所の人が、季節の花を玄関に生けていく。勝手に入ってきて花を取り換える。最初は戸惑ったが、今はその心遣いがうれしい。
 博物館のオープンは町に小さな変化をもたらした。
 「モンゴルばかりじゃなく、地元のことも伝えてほしい」。町民の声を受け、博物館脇に但東町の資料室ができた。足元にも、ちゃんとした文化がある。少しずつだが確実に、町民の意識がそこへ向かい始めた。
 「うれしい誤算です」と相好を崩す金津。博物館とともに、人と文化が交わる“拠点”となりつつある。
 九八年、一本の記録映画が話題を呼んだ。七時間四十分の長編。「お弁当二つの上映会」と報じられた。
 「四季・遊牧―ツェルゲルの人々」。全国で七十回を超す自主上映会が催され、一万五千人を動員した。
 主役はモンゴルに生きる遊牧民。但東町とモンゴルの橋渡し役となった小貫雅男(65)=滋賀県立大教授=が製作した。丸一年、遊牧民の村にスタッフと住み込み撮影した。
 「当時、村には市場経済の荒波が押し寄せていた。遊牧民は自分たちの生活を守るため、伝統的な共同体を再生し、新しい暮らし方を探っていた」
 単調な日々。が、その中にこそ、生きるということが具体的に詰まっていた。 映画は混迷する日本社会への痛烈なメッセージでもあった。反響は三千通を超えた。多くが、作品に込められた小貫の思いに賛同し、遊牧民の姿に自分たちの未来を見出そうとしていた。
 二〇〇〇年。小貫は一つのライフスタイルをまとめた。週休五日制。三世代が暮らす。名付けて「菜園家族」。地域と家族の再生に向けた新しい社会像。
 「現金収入のため週に二日だけ働く。あとは地域で菜園をつくり工芸に親しむ。本来、人が帰属する場所は会社でなく地域と家族なんです。これは一つの夢。でも、未来を悲観するより夢を見る勇気を持ちたい」
 但東町をはじめとする日本の農村と、モンゴルの遊牧民の村。巡ったフィールドが小貫の脳裏で合わさり、「夢」が生まれた。
(敬称略)