東北に残るモンゴルの残影「あもこがくる」 
 vol.37  ムックリコックリ 義経伝説 ジンギスカン鍋

私が生れた宮城県石巻市には「ムックリコックリ」という諺が広く残されています。怖いものの代名詞として使われてきましたが、つい最近まで何の事か分かりませんでした。ムックリは「蒙古里」で、コックリは「高句麗」だと言われ、あの元寇の話にまつわる話だそうです。また、私たち家族が暮らしていた青森県八戸市には「あもこが来る」という諺が残っていました。鎌倉時代、源義経は奥州平泉で自害して果てたと伝えられていますが、実はそこで死んだのは身代わりであって、義経自身はひそかに平泉を脱出、北へ向かって旅を続けたというのが義経伝説です。岩手県内の各地にも旅の足跡を残した義経は、八戸から青森に入り、さらに北へ向かったことになっています。「義経北行伝説」は、岩手・青森・北海道、更にはモンゴルに至るもので、800年もの歳月を経て各地で語り継がれてきました。果たして義経は本当にチンギス・ハーンだったのでしょうか。もともと東北地方は源義経の北方伝説が色濃く残されている地域です。その中でも青森県の八戸市内に残る義経伝説を取り上げてみても数多くあります。

 八戸市博物館長を務められた正部家種康氏は次のように義経伝説を紹介されています。義経は八戸には海からやって来ました。白銀海岸の台地に残る「源氏囲内」の地名は、義経が八戸で最初に住居を構えた場所の名残りだと土地の人は伝えています。義経の家来の板橋長治は、義経の密命を受け、八戸に先行して隠れ家の準備にあたっていた。義経が死んだという一年前に、義経は身代わりを残して平泉を脱出し、板橋長治に迎えられて八戸に到着している。長治の子孫が住んだ土地が「板橋」という地名で現存し、長者山と呼ばれる市民の憩いの森は、板橋長治にちなみ「長治山」と呼ばれていたが、後年「長者山」になったと、八戸の義経伝説を語る古文書(享保年間)に書かれています。義経が最初に住んだ館を引越したところが「館越」、そして館をつくり定住したところが「高舘」という具合に、義経ゆかりの地名が多い。義経が小さな水田を開かせ、米を作らせたところが「小田」、ホタルの美しくたくさん飛ぶ場所に命名したのが「蛍ケ崎」である。義経が持参した毘沙門天の仏像を奉ったところが小田八幡宮境内にある「毘沙門堂」、弁慶に命じて弓矢を試させ、その矢の突き刺さったところから吹き出たと伝えられる「矢どめの清水」が今も残されています。義経が家来に命じて、京都の藤ケ森稲荷の所在地から一握りの土を持参させ、その土を埋めて勧進したのが「類家の稲荷様」とも呼ばれている「藤ケ森稲荷」です。義経の奥方(久我大臣の娘)も同行していて、その奥方が亡くなったので葬った場所が、八戸市内丸の「おがみ神社」の境内とも伝えられているのです。

 このように八戸市のあちらこちらに足跡をしるし、ゆかりの地名も残した義経は、鎌倉幕府の代官として南部家の先祖が、八戸地方にやって来ると耳にし、追われる身が土地の人々に迷惑をかけられないと、北を目指して八戸を立ち去ったのです。八戸市内の各所には、伝説の案内板が立てられており、義経伝説めぐりができます。東北の人々の悲劇の英雄義経に寄せる心は温かいものがあります。義経を尊敬し手厚くもてなし、北へ逃したとされています。八戸から六ヶ所村を経由して、青森市内の貴船神社や油川の円明寺にもエピソードをとどめており、西海岸の十三湊へ、さらに北上して津軽半島の三厩から、津軽海の海を渡り、蝦夷と呼ばれた北海道へ義経を送ることになります。ロマンに満ちた義経の旅は、北海道からさらに大陸へと続き、モンゴルの英雄チンギス・ハーンになったと庶民の夢の中で膨らんでいきました。英雄は伝説になると一人歩きを始めます。世界史上最もスケールの大きい英雄チンギス・ハーンは、日本では人々の夢や期待を背負い、虚像となって膨らんでいきました。「チンギス・ハーンは義経ですか」と今でも見学者に聞かれることもあり、心中密かに苦笑しているところです。生存年代からして両者を同一人物とみなすことはできないのですが、いくら否定されてもこの伝説は長く生きつづけることでしょう。それには何か理由があるに違いないと思うのですが・・・。

 「義経はチンギス・ハーン説」を最初に唱えたのは末松謙博士で、明治12年(1879)にイギリスで発行された「史学論文・大征服者ジンギスカンは日本の英雄義経と同一人なること」でした。そして1885年、内田弥八がこの論文を「義経再興記」として和訳、発刊すると日本中に「義経はジンギスカン説」ブームが起こったようです。これは、義経とチンギス・ハーンの類似点を数多くあげたもので、ゴロ合せ的な要素も大きかったようです。大正から昭和にかけて書かれたのが、小谷部全一郎の「ジンギスカンは源義経也」ですが、「アジアはアジア人のアジアなり」と主張する独善的なもので、あまりに信頼するに足りない書でした。大正13年に東京の書店から発行され、小谷部の講演を聞いたマスコミが、新聞紙上で大きく「義経はジンギスカン、弁慶お供に蒙古入り」と報じたのが事の発端ではないかと言われています。小谷部はアメリカで学位を取得し、のち陸軍の通訳官としてモンゴルなどに派遣された人物です。彼は義経はチンギス・ハーンの根拠として、二人が白旗を用いることや、9の数を尊重すること、戦術に長けていることなどをあげ、自説を展開しています。しかし当時の学会は猛反発、その説のでたらめを証明した。小谷部はそれでも懲りずに「満州と源九郎義経」を続けて発表しています。もちろんそれも専門の学者から受け入れられることはありませんでした。

 義経が文治5年(1189)、兄頼朝に疎んじられて平泉の衣川で自刃したのちも、蝦夷に渡って生き続けたとする伝説は古くからあります。江戸時代の「本朝通鑑」「義経勲功記」、さらにあの新井白石までが「蝦夷志」の中でも義経が生き延びて北海道に渡ったとする説を書いています。その後、享保時代になると北海道がさらに北に延びて、義経が金国に入ったとする説が飛び出しました。しかし、これは偽書の「金史別伝」を根拠としたりするなど、学問的に証明することは困難です。

 また、初めて義経をチンギス・ハーンに結び付けたのは、幕末の永楽舎一水の「義経蝦夷軍談」だとも言われています。その後、明治12年に伊藤博文の娘婿である末松謙澄がイギリスで英文の書を著し、その中でチンギス・ハーンは義経だと展開しています。小谷部の書は、奇説を独創したものではなく、学問的な根拠もないものだったのです。結局、どう考えても義経はチンギス・ハーンになることはできない。しかし、もし本当なら何と壮大な謎解き物語なのでしょうか。英雄というのは、不思議な魅力、エネルギーをもつものです.ちなみにモンゴルでも、チンギス・ハーンは死なずに「日のいずる国に行った」という伝説があり、つまり日本に渡って死んだという伝説があります。

 しかし、こうした背景に影響されないはるか以前にこれを裏付ける証拠がすでに盛岡にあるのです。盛岡市内の報恩寺にある五百羅漢像は、享保16年(1731)から木造漆塗り金箔貼りの像500体ほど作られました。その中でも特異な像が伝えられており、1つはフビライ・ハーン像、もう1つはマルコポーロ像です。像そのものは、他の羅漢さんとは明らかに変わっており、異国情緒を感じさせるものとなっています。東方見聞録にマルコポーロが日本を訪れた記述はなく、そのような事実もありません。黄金の国・ジパングを求めてやってきたマルコポーロの夢を、盛岡の人たちが適えてあげたのでしょうか。何故、このような像が作られたかは一切分かっていません。義経伝説とは違いますが、どうして東北にこのような話が残されたのか興味深いものです。

 最後に話は変わりますが、「ジンギスカン鍋」と言うものをご存じでしょうか。この料理がモンゴル料理だと思っている人も多いようですが、これは日本人が発案した食べ方なのです。昭和10年前後に農林省が日本人の被服の原料を自給自足でまかなうために国策としてヒツジを100万頭に増やす計画を立てました。毛や皮は原料に使えますが、羊肉の処理に困り、食用に供されることになりました。北京の有名な料理長が呼ばれ、中華料理を参考にあみだされ、昭和10年以降から一般に広まったそうです。ヒツジを焼く料理が何故チンギス・ハーンと結び付いたかは明確ではありません。東京のジンギスカン荘という料理店で出されていたことから店の名前から来たのではないかと推察されます。特異な形をしたジンギスカン鍋はジンギスカン荘の社長が発案したことは知られているようです。もともとモンゴルでは肉そのものを焼いて食べるという風習がありませんので、まさに日本で生れた料理だということです。