ゴルバン・ゴル計画 
 vol.36  チンギス・ハーンの陵墓を探せ

 チンギス・ハーンの陵墓を探索する日本・モンゴル合同調査として、90年から3ヵ年計画で実施されました。13世紀北アジアの草原に一大騎馬帝国を築いたモンゴル帝国の始祖チンギス・ハーンの陵墓を探索する世界初の本格的学術調査は、モンゴル科学アカデミーのソドノム総裁と江上波夫東大名誉教授ら専門家からなっていました。調査地は、モンゴルの研究者たちが陵墓候補地として推定している東ヘンティー地区など3地域を重点的に、人工衛星や地下探査車、ヘリコプターによる物理探査などのハイテク考古学を駆使しての「大王の墓」探しです。

 今回のプロジェクトは88年からの事前予備交渉の末、89年4月、読売新聞とモンゴル科学アカデミーとの間で、合同学術調査団を組織することを基本合意。議定書で、合同学術調査はチンギス・ハーンの故郷を象徴する「三つの川(ゴルバン・ゴル)」にちなみ、「ゴルバン・ゴル・プロジェクト」と命名されました。90年以降の夏3ヵ月を中心に現地での探索活動が継続。チンギス・ハーン陵墓探索のベース・キャンプが置かれているムングンモリットは、ウランバートルから約190キロほど東北にあります。ヘンティー山脈の南麓に位置する木材切りだしと牧畜を主産業とした人口2800人ほどの町で、トーラ川、ヘルレン川の源流地域にあたるといわれています。一見何の変哲もない小さな村が実はチンギス・ハーン陵墓に関わる伝説の宝庫なのだというのです。この地域だけで150以上のチンギス・ハーンに関わる伝説があるそうです。陵墓警備に千人のウリャンハイ族があてられたことは記録にあるのですが、実はこの村にその子孫がいるのだと言われています。

 結果的にチンギス・ハーンの陵墓は発見されませんでしたが、考古学的な大発見は数知れませんでした。12世紀末、金国皇帝の命によりタタール族討伐に遠征、チンギス・ハーンらの応援でタタール軍を打ち破った金軍の戦勝を記念する二つの歴史的な碑文の存在が突きとめられました。この戦いは「元朝秘史」に記され、金の正史「金史」には、碑文そのものについての記述も残されています。それが実に800年ぶりに現地の考古資料によって裏付けられたことになるのです。2年目の成果としては、青銅器時代の四角墓309、積石墓36、配石遺構15、匈奴時代(紀元前3〜後2世紀)の墓288、突厥時代(6〜8世紀)の祭祀場90、モンゴル時代(10〜15世紀)の墓208。また、アラシャン・ハダの奇岩では、明の永楽帝がタタールと戦った「オノン河畔の戦い」(1410年)を実証する「大明皇帝着来」の墨書も発見。この墨書のあるビンデル山は「元朝秘史」に記されたボルハン・ハルドゥン(神の峰)との伝承があり、北西8キロには、モンゴル時代の謎の城とも言われるオグロクチン・ヘルムも残されていました。今はなき開高健が、こういっています。「蒙古高原は、生きている考古学博物館だ」。3,000年前も、チンギス・ハーンの時代も、今もこれと同じ風景だったに違いありません。

 民主化以前はモンゴルに関する情報が極端に不足していた日本でしたが、この合同調査をきっかけとしてモンゴル情報が確実に増えてきたのは事実です。民主化の様子、首都ウランバートルの暮らし、遊牧の暮らし、モンゴルの歴史や文化に関しても徐々にマスコミでも大きく取り上げられることが増えていきました。また、91年はとても雨の多い年だったのですが、この天候不順の原因は日本人が民族の英雄の墓をあばこうとしているからだという風評がささやかれました。