モンゴルからの緊急輸送 A 
 vol.28  東京女子医大から青森労災病院へ転院

 東京女子医大から八戸市にある青森労災病院に転院することにしました。妻の実家が青森労災病院の近くということもあり、子供たちを実家に預けながら看病できるということで、体が動けるようになってから転院しました。青森労災病院は第2内科でお世話になり、6人部屋に入りました。同室の人たちはいずれも急性白血病で入院しているらしく、薬で髪の毛がなくなった若い人もおります。3ヶ月の入院期間中に同室の5人が次々に亡くなってしまい、言葉では表現できない不安でした。6人部屋から急に個室に移ったかと思ったら急に亡くなったり、仲良くなった患者も次は自分ではないかといつも不安を抱えて治療していることを話していました。ときどき外泊許可をもらい、パチンコをしてきては自慢気にパチンコの攻略法を講義してくれていましたが、その彼もまもなくしてあっけなく24歳で亡くなりました。後から肝硬変で入院してきた人も、生活のために退院した直後に亡くなってます。病院のそばで小料理屋を開いていたのですが、どうしても店を開ければ無理をしなくてはなりませんし、付き合いで酒を飲むことも多かったのでしょう。トイレで吐血して亡くなったことを入院していた人に聞きました。奥さんと離婚して中学生の子どもを男手ひとつで育てていたらしいのですが、何か淋しい最後でした。病院は人生の縮図そのものを見ている感じです。いつも家族に囲まれているにぎやかなベットがあったり、誰一人見舞に来ないベットがあったり、彼女と付き合っていたのに入院が長くなるに連れて徐々に来なくなったり、入院が長くなればなるほど人生の悲哀も感じてきます。妻もそんな病院での姿を見ているためか、夢中で看護してくれました。

 長男はこの機会を利用して初めて日本の小学校に通うことになりました。小学校入学直前にモンゴルへ赴任したこともあり、学校のシステムが分かりません。朝礼で転校の挨拶をしろと言われても、「朝礼」そのものがどういうものなのかさっぱり分かりません。天真爛漫だけが取得で乗りきった短い学校生活でした。次男は近所のスーパーに連れていっては大騒ぎ。物不足のモンゴルとは違い、お金さえ出せば何でも揃うという状態を見て不思議でしょうがない様子です。店頭においてあるリンゴをかじっては元の場所に置いてみたり、悪戯盛りです。

 退院も近付いた頃、隣のベットに入院してきたおじいちゃんがおりました。看護婦さんとの話を聞いていたのか、「あなたは、あの恐ろしいあもこから来たのか」と聞かれました。何のことかさっぱり分かりませんでしたが、「あもこ」とは「あーもうこ」という意味らしく、当然モンゴルのことです。妻から聞いたら、八戸市内には「あもこが来る」という諺が残されており、怖いものの代名詞として今も使われていることを知りました。今では「あもこ」がモンゴルのことを指すことを知っている人は少ないのですが、八戸地方で得体の知れない怖いものや恐ろしいものとして「あもこ」という言葉は今でも生き続けています。何も考えないで療養していたせいか、この「あもこ」の言葉を知ってから、無性にモンゴルへ戻りたくなりました。一緒に仕事してきた仲間たちに何も告げずに帰国してしまったこと、それまで自分から好んで赴任してきた国ではなかったこと、実際に生活してみて想像以上に過酷だったこと、嫌いだ嫌いだと思いながら生活していたモンゴルだったのですが・・・。よくよく病院のベットの上で考えてみたら、モンゴルの人たちに目いっぱいお世話になりながら暮らしていたことを知りました。彼らの思いやりや心配りに感謝するために、もう一度モンゴルに戻ろうと考えました。そして、いつのまにか彼らの国や、彼らのことに対して、もっと知りたいという欲求にかられるようになりました。

 約3ヶ月間の療養生活を終え、一旦モンゴルへ戻ることにしました。完治したわけではないのですが、着の身着のままに緊急輸送されたこともあり、家族一緒にまた戻ることにしました。モンゴルの在勤予定は2年間で、後はシカゴ総領事館への転勤が既に決まっていましたが、こんな体調ではどうしても先行き不安になってしまいます。本省の医師や人事課との調整を経て、いずれにしても今回は一旦モンゴルに戻り、その後のことは体調や上司と相談の上で決めたいと思います。