◆ 大使館員としての仕事にクーリエというものがあります。外交文書を本省や近隣公館に確実に届けることが目的で、月に1度か2度の割合で廻ってきます。簡単に言うと、外交文書を運んで行く海外出張のことです。モンゴルでクーリエと呼んでいたのは、北京、香港、それに東京の外務省を併せて3ヶ所が対象になっていました。外交文書の中には機密扱いのものも多く含まれることから、クーリエバッグには封ろうして各空港施設ではフリーパスで通ることができました。途中で問題が発生しないよう、英語・中国語・モンゴル語で安全に通過できるよう依頼した大使館からの文書が準備されています。
中国や香港クーリエでは、各空港で日本人派遣員が待機してくれており、安全に確実に入国できるよう配慮されています。そのまま、すぐに大使館や領事館に向かい、文書担当官に確認してもらい金庫に収納してその日は一段落です。北京クーリエは外交文書を届けるのと同時に、食料調達を兼ねていることもあり、3泊4日程度の日程になります。現在のモンゴルのような食料が豊富な時期ではなく、明日食べる食料にも事欠いていた時期でもあり、家族で出かけられる北京クーリエはモンゴル滞在中の楽しみの一つでした。他の館員から依頼された買物もあり、食料調達と買物で丸一日潰れてしまいます。ゆっくりしたいと思いながらも適わないことでしたが、ホテルで食事できるだけで満足していたように思います。当時のウランバートル市内にはモンゴル料理かロシア料理しかなく、それも脂ぎった食事と羊肉の匂いで少々閉口していました。それだけに、メニューも豊富な中国料理やそれに日本食も食べることができた北京は極楽に感じたものでした。
◆ 当時、ウランバートル市内で食材を確保することが難しく、日常の生活にも支障をきたすほどでした。それで仕方なく高い運賃を館員で出し合って、北京から出張のたびに調達するシステムがいつのまにか確立されていました。限られた日数での出張なので個別に対応することができず、調達物資を相談して一括で注文していました。各館員が必要な分だけのユニットを各自で負担するというものです。夏の場合には北京から調達したキャベツなどの野菜は、猛暑でドロドロに溶けている場合もあり、満足に食べれるのは半分程度といった感じです。少ない野菜や肉を全員で出し合って、ト−ラ川河畔でバーベキューや豚汁を作ったりしながら毎日のように騒いでいたものでした。停電・断水の多いウランバートル市内では、こんなことでもしなければ満足な食事にありつけませんでした。
現在のモンゴル大使館員では考えられないかも知れませんが、当時はこれが当り前のことであり、館員同志の付き合いもアットホームな雰囲気でした。それが、近年ではモンゴル紹介誌では「ここの職員は旅行者に対しては恐ろしいくらいに冷淡との評判で、親類に代議士でもいないかぎり、まともには動いてはくれないらしい(佐々木節 2時間でわかる旅のモンゴル学 立風書房 1999年8月)」との悪評ぶり。これも各自でウランバートル市での生活がお金さえ出せばエンジョイできるよう変化してしまい、無理して館員同志がお付き合いする必要がなくなったからなのでしょう。
◆ 東京クーリエは北京経由での外交文書を運ぶことになるので、場合によってはトランク2個になることもあり、行きも帰りも荷物量は個人で運べる量をはるかに超えています。日本からモンゴルに戻るときには大使公邸の食材も注文して成田空港で引き取る作業があるのですが、他の館員から頼まれたことや物資だけでダンボール箱で10数個になることもありました。オーバーチャージが20万円になったこともあり、かなり大変でした。また、給料は東京銀行のニューヨーク支店に振り込まれる関係で、東京クーリエの場合には館員からの小切手を預かって東京銀行内幸町支店で換金しなければならず、大金と大量の物資、それに外交文書といった具合で本当にしんどい仕事です。成田空港着が午後8時の便を利用していたこともあり、本省に着くのはいつも10時過ぎになり、警備室で手続きして誰もいない文書室に入って金庫に収納してここで一段落。翌朝すぐに文書室に出向き、クーリエバッグの開封作業の立会い。出発の場合はこれと逆で、出発前日の夕刻に文書室に出向いて、封ろう作業に立ち会って間違いないことを確認し、そのまま金庫に収納。翌朝6時前後に金庫に収納していたクーリエバッグを持って成田空港にタクシーで直行。北京に着いても同じ仕事が待っており、徐々に荷物と文書が増えていくのです。東京クーリエは7泊8日の日程です。長いようですが、手続きやいろいろ頼まれたことを消化していると、すぐに1週間が過ぎてしまいます。家族をモンゴルに置いて、一人で東京に戻って美味しいものを食べていると、ふと家族に申し訳ない気持になってしまいます。こんな調子ですので、東京クーリエはあまり好きではありませんでした。 |