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| ◆ アパートへの引越し ◆ |
| vol.5 |
41号アパートは外交団アパート |
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◆ モンゴルに住んでみて、腹を立てない人はまずいないと思います。日本人が考えている常識とは大きく違うのです。特に、入国してから生活が落ち着くまでは1時間ごとに腹が立つ状況です。でも、これだけでモンゴルを語ろうとするととんでもないことになります。自分たちの生活習慣になじまないものを、すべて駄目なもの、けしからんものと決めつけるのは単なるヒステリーでしかありません。まずは「郷に入りては郷に従え」の言葉通りに、じっくりとモンゴル人たちの生活の在り方を見つめてみようと思います。おっかなびっくり降り立ったモンゴルは、思ったより小奇麗なロシアの町といった雰囲気で、これなら何とか暮らしていけそうだ、と思いました。これからは他人の国で暮らすのだから、モンゴルのいいところも悪いところも自分の目でしっかりと見つめようと思いました。
◆ モンゴル国境でのトラブルがあって、当初はひどい国に来たもんだと思っていましたが、まあまあウランバートルでの第1日目としては無難に過ぎました。宿泊先のウランバートルホテルはモンゴルで一番いいホテルと聞いていましたが、日本のビジネスホテルとあまり変わりません。デラックスタイプの広い部屋(3部屋4ベッド)を準備してくれていましたが、宿泊客は3階のフロア−にはどうも我が家だけの様子で、少し薄気味悪い雰囲気です。当時の宿泊料金表を掲載していますので、現在と比較してみてください。US1$が4トゥグリクで計算して、外貨に換算して支払うシステムです。外国人観光客の大半はウランバートルホテルかバヤンゴルホテルに宿泊することになります。他にもホテルがありますが、これらはモンゴル人の旅客ないし長期滞在の外国人技術者等が主に利用しています。宿泊に当たってはフロントでパスポートを一時預かり、出発時に返してくれました。部屋は風呂の湯が出ず、古ぼけたテレビがあって、いかにも社会主義らしい番組が流れていました。窓の外を見ると、4月末だというのに吹雪になっており、なおさら寒々としています。部屋の窓からは、正面に大きなレーニン像が南を向いて立っていました。なるほど、社会主義国家の象徴も健在なりといった感じです。無愛想なおばさんがポットに入れたお湯を持ってきてくれたり、話しかけても一切何も話してくれないポーターだったりしましたが、チップの習慣はないようでホッとしました。 |
| 階級&宿泊者数 |
1人 |
2人 |
3人 |
4人 |
| デラックス 3部屋4ベッド |
300 |
450 |
507 |
676 |
| セミデラックス 2部屋4ベッド |
240 |
360 |
405 |
540 |
| 1等 1部屋2ベッド |
144 |
180 |
(単位:トゥグリク) |
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◆ 翌日は前任者がシカゴへの転勤のため、ホテル暮らしは1泊のみでアパートに移ることができました。アパートは政府庁舎の北側に位置し、歩いても15分程度の至近距離にあり、日本であれば永田町か霞が関周辺でしょうか。周囲を鉄格子の塀で囲まれた中にアパートがあり、入口には管理人が24時間出入を監視してくれています。前任者は夫婦でしたので、家族には現在の部屋では狭いだろうということで19号室と20号室を借りてくれていました。5階建ての4階部分が居室になっており、部屋からの眺めもまあまあでした。20号室は2Kで、寝室と居間。19号室は1Kですので書斎と物置に使用。でも、風呂場や台所のタイルは波打ち、物置のドアは隙間だらけでうまく閉まらず、壁紙は各所で剥がれ、カーテンレールはひかかってなかなか動かない代物でした。家具は香港大丸で半年前に調達した新しいものでしたが、家具そのものが乾燥してしまい取っ手や金具がはずれるという状態です。
◆ 徐々にアパートにも慣れ、家族で街の中を歩いて回りました。国営百貨店には商品らしいものが何一つありません。しばらくウランバートル市内から物資という物資が消えた時期がありましたが、その後は中国やシンガポールから買い付けてきたものが少しずつ並ぶようになりました。郊外にある自由市場ザハなどは開店休業状態です。物不足はある程度は知っていたので、日本からコンテナ便で食料品や日用品などを引越荷物として運びましたが、モンゴルの人たちにとっては危機的な状況であったと思います。外国暮らしに不慣れな家族の珍道中がいよいよ始まります。 |
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| 向いの標準的なアパート |
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向いのアパートのベランダ |
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